2006-06-09




私 はインターネットが苦手です。パソコンの前に座っているよりも、静かに本を読んでいたり、風に吹かれながら外を歩いていたりするほうがすきです。現在の脳 中心ともいえる社会において、サイバースペースはますますそれを助長するのではないか、という危惧ももっています。あらゆるものが、身体さえもが情報化さ れる社会において、踊りは、けして情報に還元されないものです。本来ひとつでありながら、現代人においては離れてしまいやすい、心と肉体、この「からだ」 まるごとの生命のたえざる生起のただ中にあるのが、踊ることであると思います。

からだに中心はありません。中心を創るのは脳であり、 からだにおいては無数の点が中心たりえるのです。そういう意味ではこのネットの空間は、ひとつの中心というものをもたず、あらゆる個人が無数の起点として 他と繋がっていながら、どこにも実在がない、繋がれなければないも等しいという、不思議な空間です。それは踊るときのからだの回路にも似ていて、使わなけ ればないも同然、そして使い方によっては、汲めども尽きない泉のようです。

いままでは苦手意識で避けてきたものを、自分のなかで繋いでみようと思います。その方法として、ここでは私という個人の痕跡を、言葉と記憶においてに探ってゆくことにします。その底とも知れぬほの暗さのなかで、あなたと出会うであろうことを予感して・・・。



想うことのいま

踊 りは、からだに記された記憶の総体に関わることにおいて、現在のこの瞬間に生起するものです。そのときの記憶とは、私という個体がこの世界に生を受けて生 まれてくる以前、太古より連綿と続いている、人である以前の、この世界のあらゆる生命の記憶、とでもいうべきものです。私たちのからだには、そのようなも のが内包されているということを前提として、私は踊りということを考えています。

想うこと、それは、いまこの瞬間のはたらきです。ここで私は、記憶の糸を辿りつつ、それを未来へ繋ぐようなことを、踊ることの裏側の作業として、ゆっくりとやっていければ、と思っています。